それは私がしたことなのか 行為の哲学入門 (本)
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1章
コミット
その動作を心からしようと思っている
Aすることにコミットしている
Aに対してコミットメントを持つ
しようとしたいには区別がある
前者を意図,後者を欲求と呼ぶ
矛盾した意図を持つことは基本的にできない
「Aしようと意図している」はAすることにコミットしている
矛盾した欲求を持つことは出来る
「Aしたいという欲求がある」はAすることにコミットしているとは限らない
行為は「起きるまではわからない」,起きた後に回顧されるものとしか扱えない
信念と知識
意図,欲求,信念
意図するためには信念(その意図を可能にする信念)が必ず伴う
PするためにはPが出来るという信念が必要
逆,Pが出来るがPしようとは思わない は成り立つ
意図と欲求は必ずしも結びつかない
欲求と信念も必ずしも結びつかない
手を上げようと思って(行為の意図として)
手を上げることを宣言(内語)すること
手を上げる様子をイメージをすること
これらは手を上げる行為の成立には関係ない
これらはこれらで一つの行為であり,行為であるならば意図が必要
つまり,手を上げる様子をイメージする意図が必要
手を上げる様子をイメージする様子をイメージする様子を…
あるいは
神秘的な何かが勝手に頭の中に生じた結果,手が上がる
としても,ではなぜそのようなものが発生したのですか
それもまた謎の何かが…
となって結局無限後退する
意図の形成には内語やイメージを伴うことがある
内語やイメージをする際は自覚的な意識がある
それ故,意図の形成は自覚的な意識の作用である
これは偽である
特に自覚的意識を持たず意図的な行為をすることは普通にある
内語やイメージ形成はそれ自体で行為であり,行為の意図ではない.
意図,欲求,信念,これらを引き起こす心の働きなど無いのでは
人間は心と身体で出来ている
心は非物質的なもの
身体は物質的なもの
身体は機械的であり,決定的(因果連鎖に沿って決定している)だが,心は自由意志で何をすべきか決定することが出来る 他人の心と直接通じ合うことは出来ない,身体の中に閉じ込められている
批判
心が身体ならば作用させられる,なぜか?
心は,決定論的な身体を捻じ曲げていることになる,そんなことは可能なのか?
似ているからと言って,同列に語ってはいけないもの(カテゴリー違いのもの)があり,それを混同している
大学は,図書館,講義室,実験棟など複数の建物が結合して存在する場であって,大学という建物があるわけではない
「物質的な身体には運動や衝突,原因や結果などがある,当然,非物質的な心にもそうしたものがある」というのは盛大な誤りだ
ライルによる行為の説明
Pする(行為)は,こういう状況ならPしがちという傾向性が発現することである
Pすることと,Pしがちであることそれ自体は,区別される事柄である
傾向性それ自体は観察できない
行為として行われた事実をまとめることで浮かび上がってくる
石が当たるとガラスが割れました
ガラスは石が当たる(状況)と割れる傾向がある
ガラスが当たる
割れる(傾向性の発現)
これと全く同じことが行為にも言える
ライル的な心とは,
身体の中に存在して身体を動かす幽霊のようなモノではなく,
実際行為として客観的に観測可能な様々な振る舞い(発現,表情)そのもの(行動)が心である
心とは脳(物質)である
意図や欲求,信念なるものは実は存在しない
ちなみに
自由意志は存在しないことと決定論は互いに矛盾せず両立可能であるという立場もある 批判
環境的要因や身体的要因
そういう傾向がある(それらが大きな影響を及ぼしている)だけであり,そう決定しているわけではない!
状況が人の行動を具体的に決定することを意味しない!
人間は遥かに状況に呑まれやすいことだけを示している
これらは区別されるべき(混同すべきではない!)
意識せずに意図的行為を行うこと
意識がないのに行為を行うこと(夢遊病など)
つまり,これらが混同されている
意図すること
意図することを意識すること
リベットの実験結果から一般に言われていることを整理する
手首を曲げようという意図を意識する瞬間の前に,手首を曲げる行為を引き起こす脳の活動が発生する
ここから
自由意志によって行為が行われると思われているが,実際は脳によって行為は前もって準備されている
行為の原因としての自由意志は存在しない
これの批判
1. 「意図すること」と「意図することを意識すること」は別物
2. そもそも「意図を意識すること」とはなにか?
3. 「意識する」タイミングは測りうるが,「意図する」ことも同様に測りうるかは疑わしい
要するに
「手首を曲げるぞ!」という意図を自覚(意識)した瞬間それ自体を,「手首を曲げるぞ!」という意図が発生した瞬間であると同一視しているが,それは正しくないだろうという反論がある
意図や欲求,信念などを用いた行為の説明は,将来的に脳のメカニズムとして消え去るであろう
よって,意図など,それらの概念は消去されるべきである
これは順序が逆である
まだ確定していないもの,あるいはまるでそうであることが規定のものであるとして語っている
つまり人間の行為は脳内のメカニズムで全部説明が出来るという根拠のない命題で語ろうとしている,(独断論,教条主義的である) 2章
意図的な行為はほとんどの場合
より細かい部分に分割して再記述できる
右足を下げるぐらいまで細かくした行為を意図的基礎行為と呼ぶ
より広く再記述することが出来る
信念はたくさん持つことが出来る
究極的には今すぐには地球が崩壊しないという信念も持つ必要があるかも知れない
信念のインフレ
相手が何を考えているかはまさにその相手にしかわからない
心の働きについて行為者と他者に関して明確に非対称性がある
心は持ち主の身体の中に隠されている(隠蔽説)
1. 心は非物質的なものであり,行為者当人などであれば観察可能(心身二元論) 2. 心は物質的なものであり,適切な装置などで観測可能(物的一元論) どちらにせよ観測可能であり,非対称性はたまたま生じている問題である
隠蔽説の否定
意図的行為とは次のように定義される
ある意味で用いられる「なぜ?」という問いが受け入れられるような行為
上記の再記述性に近い
「行為の理由を問い,答える」というコミュニケーション
ここまで
1. 「なぜやったのか?」という理由への問いに対する答えは意図的行為の再記述内容である
2. 一部の意図的行為は「理由は無い」という説明,つまり「AするためにAした」も意味のある説明になりうる
行為者本人は基本的に行為の理由を知っていると認めることが,その人が意味のある行為をする者であると認めるための前提条件
寛容の原則と呼ぶ